強襲!桶狭間の戦い




永禄3年(1560年)5月、織田信長今川義元を討ち、一躍天下に名を轟かせた。
後にいう、「桶狭間の戦い」である。
昔の通説では、駿河と遠江の領主・今川義元が上洛を目指し、通り道にある尾張の織田信長に戦いを仕掛けたが、
楽勝だと油断していた所を織田勢に本隊を背後から急襲されて、敢え無く討たれてしまったということになっていた。
しかし、今では桶狭間の戦いは織田勢による正面突破であるといわれている。
このコーナーでは、本当の桶狭間の戦いとはどのようなものだったのか、戦の背景から本戦にかけて検証したいと思う。





◆ 嘘の通説が広まった原因
この件について「嘘の通説」とタイトルに書きましたが、嘘というと語弊があるかもしれません。
この話、実は江戸時代から世間に広く流布されていた「信長記」という、 信長の行いを必要以上に美化した物語のような伝記文学書が元になっているのである。つまり、元々 信憑性のない話なのである。
しかし、明治時代に日本陸軍の参謀本部が編纂した「日本戦史」「桶狭間役」でこの通説が取り上げられ、更には戦後においても無批判にこの戦史の内容を使用してしまった。
その結果、この間違った通説が近代まで残ってしまったのである。




◆ 今川氏の目的と尾張という土地
今川氏は義元の先々代の氏輝の頃より中央集権化を目指していた。
だが、中央集権化は配下の国人領主の利害に反するとともに、官僚制や直轄軍の整備などで莫大な経費が必要となる。 今川氏はこの経費の財源として東海道沿いの流通拠点の領有と寺社への保護と称する介入を狙っていたと思われる。
駿河・遠江を治め、三河を属国とした今川氏にとって、東海道沿いにある次なる国が、織田氏の治める尾張だったのである。

尾張の織田氏は、信長の先々代の信定 が実力で切り取った津島・熱田地方と、その子で信長の父である信秀 が切り取った知多半島周辺を財源としていた。
津島・熱田地方は、木曽川の支流・大川と天王川の合流点で尾張・美濃・伊勢・京を結ぶ海上・河川交通・流通の拠点で、尾張最大の賑わいを見せた地方である。 また、知多半島から瀬戸・猿投、美濃の多治見にかけては、常滑焼に代表される陶器産業が盛んな地方で、日本の中世・近世の陶器産業において6割強のシェアを占める経済の拠点であった。
よって、義元は是が非にでもこれらの拠点がほしかったのである。




◆ 桶狭間以前の織田氏と今川氏・松平氏の対立

◇天文9年(1540)2〜6月
2月9日、松平家の当主・松平広忠が尾張・鳴海付近を攻め、織田信秀に先制攻撃をかけた。 先の攻撃に対し、信秀は6月6日、三河に侵入して安祥城を包囲。 守将・安城左馬助長家は、広忠から派遣された援軍と共に開門して戦うも討ち死。 安祥城は、西三河における織田氏の拠点となった。

 安祥城攻略


◇天文11年(1542)8月10日
織田信秀は安祥城から進軍、小豆坂で今川氏と対戦。 始めは今川氏が優勢だったが、信秀の配下で後に「小豆坂七本槍」と呼ばれた七人の活躍で、信秀の辛勝に終わる。

 第一次小豆坂合戦


◇天文14年(1545)9月
松平広忠が安祥城を攻めるが、織田信秀の救援によって撤退。

 安祥城防衛


◇天文16年(1547)
前年に元服した信長の初陣。那古野城を発った信長は吉良大浜を攻め、所々に放火し、翌日帰城した。

 信長初陣


◇天文17年(1548)3月
今川義元は安祥城を取り戻すため、太原崇孚率いる大軍を三河に送り、まずは織田氏の出城である山崎砦を落とした。 対して、織田信秀は安祥城救援のため、17日に出兵。 19日に、小豆坂で今川軍と激突したが、敗北。 安祥城に息子の織田信広を残して尾張に撤退した。

 第二次小豆坂合戦


◇天文18年(1549)3月〜11月
3月、織田信広の守る安祥城を太原崇孚率いる今川軍が包囲。信広は9ヶ月も粘ったが11月9日に落城して捕虜となる。 この頃、織田氏は松平氏から今川氏に捕虜として出されるはずだった松平竹千代(後の徳川家康)を捕虜として抱えていたため、双方の人質交換が行われ、信広は帰還。竹千代は駿府に送られた。

 安祥城陥落


◇天文22年(1553)4月17日
この前年に織田信秀が他界したことにより、うつけの信長では尾張を治められないと見た鳴海城の山口左馬助・九郎二郎父子が今川氏に内通。信長に反旗を翻した。 山口父子は今川氏の将を尾張に招きいれると、大高・沓掛両城を調略で落とし、笠寺・中村に砦を築いた。

 山口氏謀反

この報を受けた信長は、4月17日に那古野城から出陣。赤塚で今川・山口勢と対戦するも引き分けに終わった。

 赤塚の戦い


◇天文23年(1554)正月
今川氏が知多郡の村木に築城して、信長に組する緒川の水野信元に攻撃を仕掛けてきた。 信長はこれを救援するため、那古野の守備を舅の斉藤道三に要請。20日、援軍の安藤守就の到着を確認後、 熱田から知多半島に渡り、緒川に着陣。24日、今川勢の籠もる村木砦を攻撃。信長は多くの犠牲者を出しつつも1日で落城させ、那古野に帰還した。

 緒川水野氏救援


◇弘治2年(1556)3月
この頃、三河国守護で西条城主の吉良義昭は、今川氏の三河進出を快く思ってはいなかった。信長は、義昭の手引きで三河幡豆郡荒河へ侵入。野寺原で今川氏の軍勢と対戦した。

 吉良地方侵入


◇弘治2年(1556)4月
この頃、信長の舅である美濃の斉藤道三が子の義龍と対立して隠居してしまった。後ろ盾のなくなった信長は養護していた尾張守護の斯波家の斯波義銀を主として自分は隠居して、 尾張の斯波家、三河の吉良家の同盟を後押しし、二家と同じ足利一門である今川家との関係の回復を図った。 これは一時的に成功したが、後に今川氏は逆にこれを利用して、知多の石橋家をも引き込み、新興勢力である織田氏を共通の敵として共に侵攻する作戦を立てる。 信長は、この作戦を事前察知し、斯波・吉良・石橋の三家を尾張から追放した。


◇永禄元年(1558)3月7日
信長は、今川氏に属する松平家次の守る春日井郡の品野城を攻囲。しかし、家次の急襲を受けて敗北した。

 品野城攻め





◆ 桶狭間の戦いの始まり
永禄3年(1560)5月。
この頃、織田信長は、先の山口氏の謀反により今川勢に奪われたままとなっていた鳴海城に対して丹下・善照寺・中島に砦を築き交通路を遮断。また、大高城との間にも鷲津・丸根に砦を築いていた。



この連結を絶たれた両城に対し、今川義元は何度か兵糧を入れていたようが、ついに本格的に救助すべく大規模な軍事行動を起こした。
これが、桶狭間の戦いの始まりである。
つまり、今川義元の目的は、従来の説のように上洛のためではなく、鳴海・大高両城を救援して、知多半島の入り口を完全に押さえることと、織田主力部隊を撃破することであったと思われる。
そのことは、義元が尾張より西の諸国と連携を取っていないことからも明らかである。いくら義元が大軍を発していたとしても、尾張より西の諸国すべてを倒して上洛するなどということは不可能だからです。
よって、この義元上洛の話は、信長の偉業をより大きく伝えるための創作であると思われます。

では、ここからは、織田軍と今川軍がどのようにして戦ったのかという、桶狭間の戦いの全容を時間に沿って追っていきたいと思います。




◆ 桶狭間の戦い
◇5月5日
今川義元が出陣の準備をしていることを知った信長は、三河吉良地方に出兵。各地に放火して回った。これは、吉良地方の敵が義元に呼応して出兵することを牽制するためだと思われる。

 吉良地方出兵


◇5月12日
今川義元、駿府から出兵。総勢は2万とも2万5千ともいわれる。
この日、井伊直盛・松平元康ら、今川先遣隊は掛川。義元率いる本隊は藤枝に移動。


◇5月13日
今川先遣隊は池田。本隊は掛川着。


◇5月14日
今川先遣隊は2手に分かれ赤坂で合流。本隊は引馬城(浜松城)着。


◇5月15日
今川先遣隊は御油・赤坂に陣を張る。本隊は吉田城着。


◇5月16日
今川先遣隊は池鯉鮒城。本隊は岡崎城着。


◇5月17日
今川先遣隊は尾張に侵入。本隊は池鯉鮒に到着する。
この間、清洲城では再三にわたって軍議が開かれるも、特に何も決まることはなかった。
これは、この時点で少数の織田勢には取れる策もなく、今川の出方を見るしかなかったものと思われる。


◇5月18日(午後)
義元は沓掛城に入り、ここで諸将を集めて軍議を開く。
ここまでで義元は、途中に寄った岡崎・池鯉鮒・今岡に数千、そしてこの沓掛に1500の兵を配置。
今川勢の総数は、1万5千か、それ以下になったと思われる。

 今川の進軍


◇5月18日(夕刻)
前線の鷲津・丸根両砦から信長の元に、「今川勢は十八日夜に大高城に兵糧入れを行い、翌十九日朝の満潮の時刻を狙って鷲津・丸根両砦を奪いに来る模様」との報告が届いた。
しかし、信長はこの軍議でも善後策を決めないどころか、終始合戦と関係のない話ばかりをし、挙句「夜も更けたことであるから、みな帰宅せよ。」と言って軍議を終えてしまった。 家老衆は「運の末には知恵の鏡も曇るとは此の節なり(運勢の傾くときには日頃の知恵も曇るというが、このようなことを言うのであろう)」と言いながら帰ったという。

この時には既に信長は策を決めており、軍議の席でそれを話すことで義元に情報が漏れるのを防ぎたかったと思われる。 信長は尾張を統一したばかりで、さらに今川勢の圧倒的な数の前に、誰が裏切るとも知れなかったからである。


◇5月18日(夜)
松平元康が大高城に兵糧入れを成功させる。


5月19日  桶狭間の戦い 当日
天候は、連日の日照りに加え、目も眩むばかりの暑さであったという。

◇3時頃
松平元康が大高城から1000の兵を率いて丸根砦に攻撃を開始。佐久間盛重率いる400の兵は城外に打って出て抗戦。
同じ頃、朝比奈泰朝・井伊直盛率いる2000の兵が鷲津砦を攻撃。織田秀敏飯尾近江守父は篭城策にて抗戦した。

 鷲津・丸根砦 戦闘開始


◇4時頃
「今川軍、鷲津・丸根に攻撃開始!」との早馬が信長の元へ到着。 信長は敦盛を舞い、「法螺貝を吹け、武具をよこせ。」と言うと、具足を着て立ったまま湯漬けを食べると、すぐに出陣。 このとき出陣したのは、信長と小姓衆5人の6騎のみであったという。


◇8時頃
今川義元、沓掛城から出陣。

信長は、熱田着。
上知我麻神社(熱田神宮の摂社)から鷲津・丸根の方角に煙が上がっているのを確認する。
このとき、信長に従っていたのは200程度で、まだ軍勢は集まりきっていなかった。

従来、この熱田神宮で信長は必勝祈願をし、そのときに吉兆を演出して士気を高めたというが、良質な史料には見られない。 さらには、参拝したという記述すらなく、熱田は通り過ぎただけかもしれない。

 信長 熱田に急行


◇10時頃
信長は海岸伝いに行けば近いが、潮が満ちて馬が通れないと判断し、丹下砦を介して善照寺砦に到着。
軍勢を整え、戦況を確認。今川軍が大高城に向かっているとの報を受ける。
また、中島砦では、信長の善照寺着で士気の高まった佐々隼人正・千秋李忠が300の兵で出撃した。

一方、前線の鷲津・丸根両砦は、信長の善照寺着の前後に陥落。佐久間盛重・織田秀敏らは討死。 丸根砦を落とした松平元康は大高城に戻り、大高城を守備していた鵜殿長照の兵が丸根砦に入った。

 鷲津・丸根砦 陥落


◇12時頃
義元、桶狭間山に到着。ここで鷲津・丸根両砦の陥落の報を受ける。
これに喜んだ義元は、北西に向けて陣を張り休憩。「この上もない満足である」と、遥を三番歌わせた。
その後、佐々・千秋隊が今川前線部隊に突撃をかけるも敗北。佐々隼人正・千秋李忠ら50騎が討ち取られた。 義元は、この報告でまた気を良くし「義元の矛先は天魔鬼神も防げないであろう。心地よい。」と、重ねて遥を歌わせた。

信長は、佐々隊の敗北の報を受け、善照寺砦に1000の兵を置くと、2000弱の兵を率いて中島砦に移動。 このとき家老衆は「中島への道は脇が深田で一騎ずつしか通れず、少人数の様子が敵から丸見えなのでよくありません。」と止めたが、信長は聞き入れなかった。

 義元 桶狭間へ


◇12時過ぎ
中島に着いた信長は、そこから更に軍を進めようとした。
家老衆はここでも止めようとしたが、信長は「敵は前日の夜に食を取り、大高に兵糧を入れ、更に鷲津・丸根砦での戦いで疲労している。こちらは新手だ。少数だからといって大敵を恐れるな。敵が攻撃してきたなら退き、退いたら攻めよ。何としても敵を圧倒し追い崩せ。分捕りはせず、切り捨てにしろ。この場に参加したものは家の面目、末代まで高名になるぞ。ひたすら励めよ。」と言った。
また、このとき前田利家らが手に敵の首を持ってきたので、彼らにもその言葉を聞かせた。

中島を出陣した信長は、今川前線部隊の正面の山際まで進軍した。


◇13時頃
桶狭間一帯を急雨が襲う。
時間的には10分程度であったと思われるが、ふた抱えはある松の大木をなぎ倒す程の暴風雨が西から東へ、織田勢から今川勢に向かって降りかかった。

「すわ、かかれ、かかれ。」
雨が止んだ直後に信長の大音声が響き、突然の豪雨に呆然としている今川勢へ織田勢が襲い掛かった。 不意を突かれた今川勢は算を乱して退散。弓・槍・鉄砲・のぼり・指物のみならず義元の塗輿(朱塗りの輿)も打ち捨てて逃げ去ったという。

 暴風雨〜信長突撃


◇14時頃
信長の突撃を受け、今川勢も攻撃を開始。辺りは乱戦となる。
この桶狭間周辺は丘陵と湿地帯が交互にあり、更に先ほどの雨で周囲の部隊との連携が取り難い状態となっていた。 そのことに助けられた織田勢は今川勢が集結する前に一気に突き進んだ。そして、ついに義元の本陣を見つけたのである。

 義元本陣へ


◇14時過ぎ
信長は義元の本陣を見つけると「義元の旗本はあれだ。あれに向かってかかれ。」と叫んだ。 義元ははじめ300騎に囲まれていたが、織田勢は何度も打ちかかり、50騎ほどにまで減った。 そして、ついに信長の馬回りであった服部小平太(一忠)が義元を見つけて打ちかかるが、膝口を斬られて倒れた。 しかし、その後に現れた毛利新介(良勝)が義元を切り伏せ首級をあげた。
今川義元、享年42歳であった。
この義元討死の報を受け、他にも有力武将を失った今川勢は撤退していったのである。

現在、義元が討たれた場所は、桶狭間と田楽坪の2箇所が伝わっており、どちらが本当かは分かっていない。 しかし、どちらにしろ桶狭間山の陣から追い落とされ、逃げる途中で討たれたのは間違いないようである。
 義元討死





◆ 桶狭間の戦い その後
義元の首は清洲に持ち帰られ、他の3000余の首と共に首実検がなされ、義元の秘蔵の名刀・左文字の刀は、信長が自分の物とした。
また、桶狭間の戦いにおいて鳴海城に篭っていた岡部元信は、義元の首と引き換えに開城。大高城・沓掛城・池鯉鮒城も取り返すことに成功した。

そして、信長は、岡崎城に入った松平元康と清洲同盟を結び、完全に東方からの脅威を払拭させると、上洛に向けて動き出すのである。




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