織田家の人々

城持ち武将編


赤座 永兼 (あかざ ながかね)
知名度 ☆☆☆☆★
生年不詳。七郎右衛門、入道名は紹意。越前新渡城主。美濃斎藤氏の旧臣。
はじめ斎藤氏に仕え、のちに浪人となり和田惟政のもとに身をよせる。
●永禄12年1月5日、三好三人衆らが将軍足利義昭を本圀寺で襲撃した際に、防戦。
のちに信長に仕え、織田信忠の配下となる。
●天正7年7月、井戸才助切腹の検使となる。
●天正10年、甲斐武田氏討伐で信忠に従軍。甲府の恵林寺を放火。
●天正10年6月2日、本能寺の変にて二条御所で討死。
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浅井 新八郎 (あさい しんぱちろう)
知名度 ☆☆☆☆★
生年不詳。政澄、政貞、政高、賢政などいろいろ名は伝わる。尾張刈安賀城主。
近江小谷城主浅井久政の弟伝兵衛の子息といわれるが不明。
馬廻りから赤母衣衆となる。
●永禄11年9月、上洛時に近江箕作城を攻めて陥れる。
●元亀2年9月、比叡山延暦寺焼き討ちに参加。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに参加。
のちに織田信忠の配下となる。
●天正6年6月、播磨の別所長治攻めに参加。
没年は、天正9年5月24日。
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安藤 守就 (あんどう もりなり)
知名度 ☆☆☆★★
生年不詳。伊賀守。美濃北方城主。美濃斎藤氏旧臣。
美濃三人衆の一人。
●天文23年正月、斉藤道三の命で、信長の援軍として那古屋城の留守居を努める。
●永禄10年9月、織田家に内応し、これにより信長は稲葉山城を陥れる。
●永禄11年9月、上洛に従軍。
以後、各地で転戦する。
●天正8年8月17日、かつて武田氏に内通したという罪状で追放される。
本能寺の変後、その混乱に乗じて旧領の北方城に拠って挙兵する。
しかし、天正10年6月8日に稲葉一鉄によって攻め亡ぼされた。
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飯尾 尚清 (いいお ひさきよ)
知名度 ☆☆☆☆★
享禄元年生まれ。茂助、隠岐守。尾張奥田城主。黒母衣衆。
●永禄3年5月、桶狭間の戦い時に、鷲津砦を守備。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに先陣として従軍。
●同年11月、禁裏御領の山科七郷に対して諸役を免除する連署状を金森長近と発給。
●天正7年4月、播磨三木の砦奉請の検使となる。
本能寺の変後は、織田信雄に仕える。
●天正15年11月、正五位上に叙任。
●天正18年、従四位下侍従に叙任。
●同年、小田原出兵に従軍。
没年は、天正19年2月22日。享年、64歳。
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池田 恒興 (いけだ つねおき)
知名度 ☆☆★★★
天文5年生まれ。勝三郎、紀伊守、入道名は勝入。摂津伊丹城主、美濃大垣城主。
母は信長の乳母の養徳院。信長の乳兄弟で、10歳の頃から信長に仕える。
●永禄3年5月、桶狭間の戦いに従軍。
●永禄12年8月、伊勢大河内城攻めに従軍。
●元亀元年6月、姉川の戦いで家康に属して戦い、功を立てる。
●天正8年7月、荒木村重の摂津花熊城を陥落させ、摂津に所領を与えられ、伊丹(有岡)を居城とする。 この頃から天正10年頃までに紀伊守に任命されたようだ。
●天正10年5月、中国出陣の命を受けるが、本能寺の変が勃発。羽柴秀吉らと山崎の戦いで明智光秀を破る。
●天正11年5月、美濃大垣城に移る。この頃から勝入と号し、子の勝九朗元助が紀伊守となる。
●天正12年4月9日、小牧長久手の戦いで徳川家康の急襲を受け、子の元助とともに戦死した。
享年、49歳。
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市橋 長利 (いちはし ながとし)
知名度 ☆☆☆☆★
永正10年生まれ。九郎左衛門、壱岐守、入道名は壱斎。美濃福塚城主。美濃斎藤氏旧臣。
永禄6年以前から信長に内通して美濃国内の豪族の懐柔に奔走していたらしい。
●永禄10年9月、信長の美濃平定を受け、浅井長政が提携の申し込みを行った際に仲介役となる。
●永禄12年8月、伊勢大河内城攻めに従軍。
●元亀元年6月、姉川の戦いに従軍。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに従軍。
●天正6年元旦、信忠ら有力武将11名と共に信長から茶を頂戴する。
●同年同月4日、信忠の茶器の披露会に参加し、信長からハスの御絵を拝領する。
本能寺の変後は、豊臣秀吉に属した。
没年は、天正13年3月13日。享年、73歳。
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