織田家の人々

織田一族編


( 信長から見て )
祖父・叔父 父・兄弟 息子・孫・甥

祖父・叔父

織田 信定 (のぶさだ)
知名度 ☆☆☆☆★
三郎、弾正忠。尾張勝幡城主。信長の祖父。
清洲守護代織田大和守の三奉行の一人。
商業・流通の拠点であった湊町津島を実力で掌握し、豊富な経済力を確保した。
このことが、後に弾正忠家の発展の基盤となる。
没年は、天文7年11月2日。
← 戻る


織田 秀敏 (ひでとし)
知名度 ☆☆☆☆★
七郎、玄蕃允。信定の弟(信長の大叔父)。
信秀や平手政秀の死後、秀敏が斎藤道三に送った書状で、織田家の不破不統一を嘆いた所、
道三から励ましの書状(返事)をもらっている。
このことから、この時期、信長の後見役の地位にあったと考えられる。
また、桶狭間の戦いの時には、前線の鷲津砦を守っており、信長に今川襲来の報を伝えている。
しかし、その後は不明である為、鷲津砦が落ちた時に討たれたものと思われる。
← 戻る


織田 信康 (のぶやす)
知名度 ☆☆☆☆★
与次郎。尾張犬山城主。信秀の弟(信長の叔父)。
●天文11年、三河小豆坂の戦いで武功あり。
●天文13年9月22日、美濃稲葉山城攻めで討ち死。
← 戻る


織田 信光 (のぶみつ)
知名度 ☆☆★★★
孫三郎。尾張守山城主、のちに那古野城主。信秀の弟。
●天文11年、三河小豆坂の戦いで武功あり。
●天文21年、尾張海津の戦いに援軍として参加。
●天文23年5月、信長と謀り、尾張守護代織田氏の清洲を奪う。
その後、那古野城に入るが、天文23年11月28日、坂井孫八郎の謀反にあい死亡。
← 戻る


織田 信実 (のぶざね)
知名度 ☆☆☆☆★
四郎二郎。
天文11年、三河小豆坂の戦いに従軍している以外は一切不明。
← 戻る


織田 信次 (のぶつぐ)
知名度 ☆☆☆☆★
孫十郎。尾張守山城主。
●天文23年、信光の後を受けて守山城に入るが、その翌年、家臣の洲賀才蔵が
信長の弟 秀孝を誤って射殺するという事件が勃発。
信次は信長の報復を恐れて出奔した。
その後、守山城は信長の弟 秀俊が入るが、その死後はまた信次が復帰した。
●天正2年8月2日、伊勢長島一向一揆との戦いで死亡。
← 戻る


織田 信張 (のぶはる)
知名度 ☆☆☆☆★
大永年生まれ。太郎左衛門尉、左兵衛佐。和泉和田城主、尾張小田井城主。
●元亀元年9月、浅井・朝倉氏との対決の時、大津唐崎を守備。
●天正4年11月、従五位下に叙任。
●同年、紀伊雑貨攻めに参加し、佐野に駐留。
本能寺の変後は信雄に仕えた。
没年は、文禄3年9月22日。享年、68歳。
← 戻る



織田家TOPに戻る      ↑ページTOPに戻る














( 信長から見て )
祖父・叔父 父・兄弟 息子・孫・甥

父・兄弟

織田 信秀 (のぶひで)
知名度 ☆★★★★
永生8年生まれ。三郎、弾正忠、備後守。尾張勝幡→那古野→末森→古渡城主。信長の父。
織田弾正忠家を三奉行筆頭の地位まで押し上げた実力者。
実力的には、主家である清洲織田氏より上であった。
尾張南部を掌握し、美濃と三河への二方面作戦を展開する。
しかし、天文13年の美濃稲葉山城攻めと第二次小豆坂の戦いに敗北したため、
信長と濃姫の縁組みにより、斎藤道三と同盟を結ぶ。
没年は、天文21年3月9日(異説あり)。享年、41歳。
← 戻る


織田 信広 (のぶひろ)
知名度 ☆☆☆★★
三郎五郎、大隅守。信長の庶兄。
●天文17年、三河安祥城の城将となるが、翌年、今川勢の攻撃により陥落。今川の捕虜となる。
その後、尾張に抑留されていた松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換により帰国。
●弘治2年、美濃の斎藤義龍との密約で信長を襲おうとするが、情報が信長に漏れ降伏。
その後は、信長の家来として働いた。
●永禄11年、上洛作戦に従軍。
●元亀3年、美濃岩村城を守備。
●天正元年、足利義昭との対立時に和平の使者として会見。
●同年、足利義昭追放戦に従軍。
●天正2年7月29日、伊勢長島一向一揆との戦いで先鋒を務め、戦死。
← 戻る


織田 信勝 (のぶかつ)
知名度 ☆★★★★
勘十郎、弾正忠、武蔵守。尾張末森城主。信長の同腹の弟。生母は信秀正室・土田御前。
名は信行ともいう。兄・信長と対照的に優等生な弟であった。
そのため、家臣の中には、後継ぎには信長ではなく信勝を という声も多かった。
●弘治元年、弟・秀孝が射殺された事件の時に守山城主信次を攻撃。
●弘治2年、宿老・柴田勝家、宿老・林秀貞、その弟・林美作守と共に信長に反旗をひるがえすが
敗北。この時は、信長・信勝の生母・土田御前の嘆願により罪を許される。
その後、再び反旗をひるがえそうとした為、信長は病と偽って信勝を誘き寄せ、
清洲城内で河尻秀隆に殺害させた。
殺害された年については、様々な説があるが永禄元年11月2日と思われる。
← 戻る


織田 信包 (のぶかね)
知名度 ☆☆★★★
天文2年生まれ。三十郎、上野介。伊勢安芸群上野城主。信長の弟。
永禄11年2月、信長の謀略で伊勢長野氏の名跡を継ぐ。
●永禄12年8月、伊勢北畠氏との戦いに従軍。
●元亀元年6月、姉川の戦いに従軍。
●天正2年7月、長島一向一揆との戦いに従軍。
●天正3年、越前一向一揆との戦いに従軍。
●天正5年2月、紀伊雑賀攻めに従軍。
●天正6年4月、本願寺攻めに従軍。
●天正9年2月28日、正親町天皇の御前での馬揃えに参加。
●同年、伊賀攻めにて武功あり。
没年は、慶長9年7月17日。享年、72歳。
← 戻る


織田 信治 (のぶはる)
知名度 ☆☆☆☆★
天文14年生まれ。九郎。尾張信府城主。信長の弟。
元亀元年9月19日、浅井・朝倉軍に急襲された近江・宇佐山城に援軍として参戦。
翌日、宇佐山城主・森可成と共に戦うが敗北し、討ち死。享年、26歳。
← 戻る


織田 秀俊 (ひでとし)
知名度 ☆☆☆☆★
喜蔵、安房守。尾張守山城主。信長の弟。
弘治元年7月6日、叔父の信次出奔後、守山城主となる。
しかし、翌年6月、家臣の角田新五郎の謀反にあい自害。
← 戻る


織田 長益 (ながます)
知名度 ☆☆★★★
天文16年生まれ。源五。剃髪して号は如庵有楽。尾張大草城主。信長の弟。
●天正9年2月28日、正親町天皇の御前での馬揃えに参加。
●天正10年3月、甲州征伐に信忠に付いて出陣。
本能寺の変後は織田信雄 → 豊臣秀吉と仕える。
没年は、元和7年12月13日。享年、75歳。
← 戻る


織田 信興 (のぶおき)
知名度 ☆☆☆☆★
彦七郎。尾張小木江城主。信長の弟。
●元亀元年11月21日、信長が近江で浅井・朝倉と対峙しているとき、
その隙をついて伊勢長島一向一揆が小木江城を急襲。信興は自刃した。
← 戻る


織田 秀孝 (ひでたか)
知名度 ☆☆☆☆★
天文10年生まれ。喜六郎。信長の弟。
●弘治元年7月、守山城主 織田信次の家臣 洲賀才蔵に誤って矢で射られ死亡。
享年、15歳。
← 戻る


織田 信照 (のぶてる)
知名度 ☆☆☆☆★
越中守。信長の弟。
●天正9年2月、正親町天皇の御前での馬揃えに参加。
本能寺の変後は織田 信雄に仕えた。
没年は、不明。
← 戻る


織田 秀成 (ひでなり)
知名度 ☆☆☆☆★
半左衛門尉。信長の弟。
●天正2年7月29日、伊勢長島一向一揆攻めで信忠に従軍して 戦死。
← 戻る


織田 長利 (ながとし)
知名度 ☆☆☆☆★
又十郎。信長の弟。
名は、長則ともいう。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めで信忠に従軍。
●天正9年2月、正親町天皇の御前での馬揃えに参加。
●天正10年6月2日、本能寺の変にて二条御所で討死。
← 戻る



織田家TOPに戻る      ↑ページTOPに戻る














( 信長から見て )
祖父・叔父 父・兄弟 息子・孫・甥

息子・孫・甥

織田 信忠 (のぶただ)
知名度 ☆★★★★
弘治3年生まれ。奇妙、勘九郎、出羽介、秋田城介。尾張、美濃国主。美濃岐阜城主。
信長の嫡男。生母は生駒氏(吉乃)
●元亀3年7月、初陣として信長の朝倉攻めに従軍。
●天正元年、足利義昭追放戦に出陣。
●天正2年1月、従五位下に叙任。
●天正3年11月、信長から尾張・岐阜を与えられ家督を相続。
●天正5年10月、松永久秀討伐戦に総大将として出陣。
●同年、従三位左近衛権中将に叙任。
●天正6年10月、荒木村重討伐戦に出陣。
●天正10年3月、甲斐武田氏平定戦に総大将として出陣。
●同年6月2日、本能寺の変にて二条御所で自刃。
享年、26歳。
← 戻る


織田 信雄 (のぶかつ)
知名度 ☆★★★★
永禄元年生まれ。茶筅、三介。伊勢松ヶ島→伊勢長島→尾張清洲城主。
信長の次男。生母は生駒氏(吉乃)
実名を具豊→信意→信勝→信雄と変えている。
●永禄12年10月、伊勢国司北畠氏の養子となり伊勢の国司となる。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに従軍。
●同年、従五位下侍従に叙任。
●天正3年6月、正五位下に叙任。
●同年8月、越前一向一揆攻めに従軍。
●同年11月、右近衛権中将に叙任。
●天正9年9月、伊賀平定戦に総大将として出陣。
本能寺の変後は、尾張を領地に加え、秀吉に仕えた。
しかし、小田原城攻略後に改易となり、その後、家康に仕えた。
没年は、寛永7年4月30日。享年、73歳。
← 戻る


織田 信孝 (のぶたか)
知名度 ☆★★★★
永禄元年生まれ。三七郎。伊勢神戸→美濃岐阜城主。信長の三男。生母は坂氏。
実は信雄より早く生まれたが、生母の身分が低いため(届け出が遅れたため?)
信雄の弟扱いとなったとも云われる。
●永禄11年2月、伊勢の神戸氏の養子となる。
●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに従軍。
●天正5年11月、従五位下侍従に叙任。
●天正10年5月、四国征伐の総大将として出陣するも、本能寺の変が起こり中止。
●同年6月、山崎の合戦に参戦。
●天正11年4月、秀吉に対抗するも敗れ、自刃。享年、26歳。
← 戻る


羽柴 秀勝 (ひでかつ)
知名度 ☆☆☆★★
御次。秀吉の養子。丹波亀山城主。
●天正10年3月、備前小島攻めにて初陣。
●同年同月、備中高松城攻めに参戦。
●同年6月、山崎の合戦に参戦。
●天正11年2月、病にかかり病床につく。
●天正13年12月10日、病没。
← 戻る


織田 勝長 (かつなが)
知名度 ☆☆☆☆★
御坊丸、源三郎。美濃岩村城主・遠山内匠助の養子。尾張犬山城主。
●元亀3年11月、武田氏の武将・秋山信友に攻められ捕虜となる。
●天正9年11月、武田勝頼によって安土に送り帰される。
●天正10年3月、甲斐武田氏平定戦に従軍。
●同年6月2日、本能寺の変にて二条御所で討死。
← 戻る


織田 信秀 (のぶひで)
知名度 ☆☆☆☆★
大洞、三吉郎。剃髪して号は浦坊。
本能寺の変前の動向は不明。
●天正13年7月、従五位下侍従に叙任。
●天正15年3月、秀吉の九州討伐に従軍。
●文禄元年4月、朝鮮出兵の折、肥前名護屋に駐屯。
← 戻る


織田 信高 (のぶたか)
知名度 ☆☆☆☆★
小洞、藤十郎、左衛門佐。生母は高畠氏(お鍋の方)
本能寺の変時は美濃にいたらしい。
その後は、秀吉→家康とついた。子孫は、幕府旗本として存続。
没年は、慶長7年12月12日。
← 戻る


織田 信吉 (のぶよし)
知名度 ☆☆☆☆★
天正元年生まれ。酌、武蔵守。剃髪して号は道ト。生母は高畠氏(お鍋の方)
●慶長5年9月、関ヶ原の戦いに西軍で参戦。
●元和元年4月18日、没。享年、43歳。
← 戻る


織田 信貞 (のぶさだ)
知名度 ☆☆☆☆★
人、藤四郎、雅楽助。生母は土方氏とも青山氏とも伝わる。
●某年、従五位下雅楽助に叙任。
関ヶ原後は家康について本領を安堵。
没年は、寛永元年6月6日。享年、51歳。
← 戻る


織田 信好 (のぶよし)
知名度 ☆☆☆☆★
長、左京亮。
動向は不明。
没年は、慶長14年7月14日。
← 戻る


織田 長次 (ながつぐ)
知名度 ☆☆☆☆★
縁、長兵衛尉。
●慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いに西軍にて参戦し、戦死。
← 戻る


織田 信正 (のぶまさ)
知名度 ☆☆☆☆★
天文23年5月5日生まれ(?)於勝丸、帯刀、大隅守、主膳正。生母は原田氏(直子)
信長の庶長子とする史料には所伝がない為、真偽は不明。
●天正14年、剃髪して見性軒と号す。
●天保4年11月25日、没。享年、94歳(?)
← 戻る


織田 秀信 (ひでのぶ)
知名度 ☆★★★★
三法師、三郎、美濃守。信忠の嫡男。美濃岐阜城主。信長の孫。
●天正10年、清洲会議にて織田家の家督相続者となる。
●天正17年、従五位下侍従に叙任。
●文禄元年、岐阜城主となる。
●文禄2年、中納言に叙任。
●慶長5年8月22日、関ヶ原の戦いで西軍に与し、岐阜城に篭城するが落城。
その後、福島正則に投降。剃髪して高野山に送られた。
没年は、慶長10年5月8日。享年、26歳。
← 戻る


織田 信澄 (のぶずみ)
知名度 ☆☆☆★★
御坊、七兵衛尉。信長の弟、信勝の子。生母は和田氏(?)。近江高島城主。信長の甥。
●天正2年2月3日、岐阜城内の茶会に参加。
●天正3年7月、越前一向一揆征伐に従軍。
●天正9年10月、平定した伊賀国見物に信忠と共に同道。
●天正10年、本能寺後に光秀の女婿という理由で信孝や丹羽長秀に殺される。
子孫は江戸旗本として存続。
← 戻る



織田家TOPに戻る      ↑ページTOPに戻る