信長合戦記



信長初陣〜美濃平定 上洛〜信長包囲陣崩壊 方面軍戦〜本能寺の変







永禄10年(1567)
長島にて、一向一揆が発生。
信長が自ら出馬し、これを鎮圧。




同年、8月
信長の命を受けた、滝川一益らが北伊勢に侵攻。
茂福・赤松・楠城を攻略し、続いて高岡城を攻撃。
しかし、何度も波状攻撃をかけるがなかなか落とせない。
そこへ美濃方面に武田軍が侵攻するという噂が流れた為、一時撤退した。




永禄11年(1568)、2月
この年に信長は再び伊勢に侵攻。
神戸氏の支城・高岡城の城下を放火し、これを落とした。
ここで、神戸氏との間に和平が結ばれ、
信長は三男の三七郎信孝を神戸友盛の養子とした。
さらに信長は、長野・細野・工藤・関という諸氏を降し、
弟の三十郎信包に長野の名を継がせた。




同年、9月
美濃を平定した翌年、かねてより予定していた上洛作戦を実行。
9月7日、信長は足利義昭を奉じ、家康の援軍を合わせた約六万の軍勢を率い岐阜を出兵。
その道をふさぐ近江・観音寺城の六角承禎は その勢いに屈し伊賀へ逃亡。
9月26日、上洛作戦は見事成功に終わった。




永禄12年(1569)、1月6日
上洛した信長の帰国後、義昭政権の転覆を目論む斎藤龍興・三好三人衆などが京に侵攻。
義昭のいる本圀寺を包囲し攻撃。
しかし、信長の残した明智光秀などが奮戦し、撃退した。




同年、8〜10月
伊勢の木造具政が、国司の北畠具房に背き、信長に内応。
信長はこれを機に、伊勢へ侵攻。
8/20、8万強の大軍を率いて岐阜場から出兵。
8/26、先発隊の木下秀吉が阿坂城を攻略。
8/28、北畠氏の居城・大河内城を全軍にて包囲。
10/3、北畠具房、降参して開城。
信長は次男の三介信雄を猶子とすることを条件として和睦を締結し、伊勢を支配下に置いた。




元亀元年(1570)、4月
この年の正月、信長は義昭を奉じ、畿内・近国に上洛し幕府に礼参するよう触状を送った。
しかし、朝倉義景はそれを無視したため、4月20日、信長はこれに軍勢を差し向けた。
信長軍は25日に手筒山城を落とし、26日には金ヶ崎・疋田両城を落とした。
しかし、ここで妹婿の浅井長政が突如 離反。
信長は挟み撃ちの危機を察知し、即座に撤退した。




同年、6月28日
信長は浅井討伐を決心し、家康の援軍を得て近江に侵攻。
織田・徳川軍、浅井・朝倉軍が江北の姉川を挟んで対峙。
これが有名な『姉川の合戦』である。
戦闘が開始された当初は浅井軍の前に押され気味の織田軍であったが、
徳川軍が朝倉軍を破ったことにより形勢が逆転。
最終的に織田・徳川軍の勝利に終わった。




同年、8月〜9月
斎藤龍興・三好三人衆が、本願寺・浅井・朝倉に呼応し摂津に侵出し野田・福島に砦を築く。
信長は大鉄砲を使ってこれを攻撃。
対する敵方も雑賀・根来衆の鉄砲隊にて反撃し銃撃戦となる。
やばて敵方から和睦の申し出があるが、信長はこれを無視して攻撃を続ける。
しかし、結局、浅井・朝倉が南近江に侵出してきたため撤退。




同年、9月〜12月
9月20日、浅井・朝倉軍が南下し宇佐山城を落とし、織田信治・森可成が討ち死にした。
信長は摂津から兵を引き上げると京都に戻った。
浅井・朝倉軍はそれを聞き、比叡山に逃れ立て籠もった。
信長は包囲攻撃をかけるが戦況は好転せず、結局、朝廷や幕府の調停により兵を引き上げた。




元亀2年(1571)、5月16日
昨年、伊勢長島の一向一揆は尾張・小木江城を落とし、信長の弟の信興が自刃させられたいた。
信長は、これを討つために長島に出兵するも戦況は好転せず、
結局 兵を引き上げることとなった。
このとき、一揆勢の追撃を受け、氏家ト全など多くの犠牲を出した。




同年、8月〜9月
信長は近江の朽木氏が内応してきたのを機に江北へ出兵。
余呉・木之本を放火。ついで佐和山城に陣を引き、南近江に侵攻。
志村城・金ヶ崎城を落とし南近江の一向一揆を粉砕した。




同年、9月12日
昨年、浅井・朝倉軍を匿ったことに対して恨みを持った信長は、比叡山延暦寺を急襲。
坂本にある日吉21社や根本中堂など多くの堂舎を焼き払った。
『比叡山焼き討ち』である。
この時、僧俗3・4000人が討たれたという。




元亀3年(1572)、3月
江北に出兵した信長は横山城に入り余呉・木本に放火。
しかし、浅井勢が出兵してくることはなかった。
そこで、信長は志賀群の和邇に移動して木戸・田中両城を攻撃。
付城を築き、そこに明智・丹羽を抑えに置いて上洛した。




同年、7月〜9月
7月19日、信長は嫡男信忠の初陣として江北へ侵攻。
横山城に陣取った信長軍は山本山城など浅井氏の拠点を次々と攻略。
その後、朝倉氏が浅井の援軍として駆けつけ小谷城に入ったため戦況は膠着状態となる。
その状態が1ヶ月以上も続いた後、「信玄動く」の報を受け信長は羽柴秀吉を抑えに置いて急遽 岐阜へ引き上げた。




同年、10月〜12月 ≪静岡県浜松市≫
信長包囲網の要となる人物・武田信玄は、足利義昭・本願寺・浅井氏・朝倉氏と結んでいた。
この年の10月、信玄は甲府を発ち、遠江に侵攻。
12月22日、織田の援軍を得た徳川軍を三方ヶ原で撃破した。
その後、信玄は尾張に向かい進軍するが、病が重くなったために帰国。
帰国の途中で死去した。




天正元年(1573)、2月
この頃、将軍足利義昭は反信長派を煽り、打倒信長に乗り出していた。
義昭の命を受けた近江の山岡景友は一向宗と結んで挙兵。
信長はすぐに柴田勝家らを派遣し、これを鎮圧した。




同年、4月
信長は上京に放火し、将軍御所を孤立させ包囲した。
しかし、朝廷の和平勧告により撤退を余儀なくされる。




同年、7月3日
義昭は将軍御所を側近の三淵藤英に守らせ、宇治の槇島城に立てこもり挙兵。
信長は9日に御所を落とすと、18日には槇島城を落とし義昭を追放。
室町幕府の最後であった。




同年、8月〜9月
信玄の死と義昭の追放によって危機を脱した信長は、浅井・朝倉氏と決着をつけるために出兵。
まず信長は浅井氏の応援に駆けつけた朝倉軍を撃破。
これを追撃し、一乗谷を攻め落とし朝倉義景は自刃して果てた。
その後、信長は孤立した小谷城を包囲攻撃し、ついに浅井長政も自刃。
信長は江北と越前を支配下に置いた。





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