×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


信長合戦記



信長初陣〜美濃平定 上洛〜信長包囲陣崩壊 方面軍戦〜本能寺の変







天文16年(1547)
元服した14歳の信長の初陣。
西三河の今川領、大浜城を攻める。
落とすにはいたらなかったが、各所に放火し、翌日には帰城。




天文21年(1552)、4月17日
この年の3月に父・信秀が病死した為、反信秀派の行動が活発化。
まず、山口親子が今川に内応し、笠寺・中村に砦を築き挙兵。
報告を受けた信長と赤塚で対戦し、引き分けに終わった。




同年、8月16日
清洲城主・織田信友の家宰・坂井大膳らが松葉城・深田城を乗っ取り、反旗。
信長は叔父・織田信光の援軍を得て、これを撃破。
松葉城・深田城は解放される。



天文22年(1553)、7月18日
尾張守護代・斯波義統が、坂井大膳らの急襲を受け、自刃。
信長は弟・織田信行の家臣・柴田勝家に命じ、清洲を攻撃。
清洲の有力武将30余人を討ち取る。




天文23年(1554)、1月24日
今川勢が尾張侵攻用として村木に砦を築いた為に、ここを攻める。
鉄砲隊を動員し、夕方までに落城に成功。
ただし、犠牲者も多かった。




同年、5月
信長と信光が謀り、清洲城の信友を殺害。
坂井大膳は駿河に逃げ延びた。
これにより、信長は清洲城に入り、那古屋は信光が入った。




弘治元年(1555)、7月
信長の弟・秀孝が守山城主・信次の家臣に誤って射殺される事件が勃発。
信次は信長を恐れ出奔。
その家臣達は籠城するも 耐え切れず開城。




弘治2年(1556)、8月24日
信長と弟・信行の不仲が表面化。
信行が信長の直轄地を押領したため合戦に発展。
激戦の末、信長の勝利に終わる。
信行は母親の嘆願により放免。




永禄元年(1558)、3月7日
尾張東部まで勢力を広げてきた今川勢を追い払うべく春日井群の品野城を包囲。
辺りに付城を築くなどして攻囲にでるも、品野城将・松平家次の急襲を受け大敗。
50余人の戦死者を出した。




同年、7月12日
尾張・岩倉城の家督争いに乗じて岩倉の織田信賢を攻撃。
犬山城の織田信清の協力を得て、信賢軍を撃破。
この戦いで、信賢軍の戦力を半減させる。




永禄2年(1559)、1〜3月
戦力の半減した織田信賢の岩倉城を包囲。
火を放ち裸城にした上で、鉄砲攻めにして落城させた。




永禄3年(1560)、5月5日
今川義元の駿府出陣を知り、その前に各地に放火して廻る。
しかし、出陣は行なわれ義元の遠征が始まる。




同年、5月19日
今川義元が兵一万余を率いて尾張に侵攻。
松平元康らが、尾張前線の鷲津砦・丸根砦を落とす。
しかし、信長が桶狭間で休息中の本陣を急襲。
義元が討ち死にし、今川勢は退却した。
後に『桶狭間の戦い』と呼ばれる合戦である。




同年、6〜8月
6月、桶狭間の戦いの余勢を率いて美濃に侵攻。
しかし、斎藤家の武将、丸茂・市橋、そして長井甲斐守と戦い敗退。
8月にも侵攻するが、再び丸茂・長井 両名に阻まれ退却。




永禄4年(1561)、4〜5月
義元の死によって今川勢の支配の弱まった、
三河加茂群の梅ガ坪城の三宅氏を攻撃。
続いて、伊保城・八草城を攻撃。
翌月にも同群の挙母城を攻撃し、中条氏を滅す。




同年、5月14日
5月11日に、斎藤義龍が急死し、その子の龍興が後を継いだ。
信長は美濃の国内が安定するまでの隙を突き侵攻。
斎藤家の有力武将を多数討ち取り勝利を治めた。




同年、5月23日
墨俣砦の修復を済ませ、これを拠点とした信長に対して斎藤勢が攻撃。
信長も墨俣砦から出て応戦するも、織田信清の弟が戦死したため一時退却。
斎藤勢は勢いに乗り北軽海まで侵攻したが、池田恒興・佐々成政らの活躍で
結局 信長の勝利に終わった。




同年、6月
先月の勝利に乗じて斎藤家の本拠地・稲葉山城下に迫り放火して周る。
しかし、調子に乗りすぎて反撃に遭い、織田越中守が戦死。




永禄5年(1562)、6月
犬山城主・織田信清が美濃の斎藤氏と手を結び離反。
犬山城は尾張と美濃の境にある重要な拠点だったので、
信長はすぐに犬山の支城・小口城を攻める。
しかし、戦果は上がらず撤退。




永禄6年(1563)
今まで侵攻してきた場所とは別の、美濃中部付近に布陣し、斎藤氏と対戦。
先鋒の池田恒興・坂井政尚両隊がまず敗退し、続く柴田勝家・森長可隊も
防戦に追い込まれ、ついに退却。




永禄7年(1564)、8月
この時期、美濃の稲葉山城が竹中半兵衛により奪取される事件が起きていた。
信長はその隙を突き、国境の犬山城を攻撃。
丹羽長秀の調略により、支城の黒田城・小口城の武将が内応した為 落城に成功。
ここに、信長は尾張一国を完全に手中に治めた。




永禄8年(1565)
東美濃侵攻の第一目標である、宇留摩城と猿啄城を攻める。
まず信長は、宇留摩城下を放火。
その後、木下秀吉を遣わし、城主・大沢基康を誘降させた。
そして、続いて猿啄城へ侵攻。
丹羽長秀・河尻秀隆の活躍で、城主・多治見修理亮は城を捨て逃亡した。




同年、9月28日
猿啄城の三里奥にある加治田城主・佐藤紀伊守は、
丹羽長秀の調略により信長方へ寝返っていた。
それを知った斎藤家の武将・長井隼人正は多治見一党などに命じ、
堂洞に付城を築き、加治田城を攻めてきた。
信長は佐藤氏救援のために美濃へ出兵し、堂洞城を包囲し、これを落とした。




永禄9年(1566)、8月8日
前将軍・足利義輝の弟・義昭は幕府再興のため、
信長に上洛軍の出兵を促し、織田と斎藤の和平締結を命じた。
しかし、予想外に斎藤龍興が和平を破棄したため上洛作戦は実行できなかった。
信長は名誉挽回のために斎藤氏を攻めるが、風雨に続いて洪水まで起き、
その影響で大敗した。




永禄10年(1567)、9月
8月1日に斎藤氏の有力武将で美濃三人衆と呼ばれる、
稲葉一鉄・氏家ト全・安藤守就の三人が信長に内応してきた。
信長はこれを機に、稲葉山つづきの瑞龍寺山を攻め、これを落とす。
翌日には四方に鹿垣を結び稲葉山城を囲んだ。
これにより、斎藤龍興は降伏。稲葉山城を落とすことに成功した。

ここに至り、信長はついに美濃を平定したのである。





信長初陣〜美濃平定 上洛〜信長包囲陣崩壊 方面軍戦〜本能寺の変


戻る