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正式な名前と呼び方


戦国時代を知る上で避けては通れないものに武将の名前がある。
しかし、戦国武将の名前には現代人に馴染みのないものが含まれている上に、何度も変わったりするため非常に覚えづらい。
そこで、まず名前の種類とその意味。そして、正しい呼び方について説明しようと思います。




●男子の名前

まず、男子が生まれると「幼名(ようみょう)というものが付けられる。
これは読んで字の通り「幼い頃の名前」で、何か意味のある言葉から引用される場合などが多いが、特に定められた決まりはない。
よく使われるもので、豊臣秀吉の「日吉丸」のような「〜丸」は、子の大成をねがう意味があり、徳川家康の「竹千代」のような「〜千代」は、長寿と健康をねがう意味がある。 特殊なものでは、豊臣秀頼の「拾」のようにいったん捨てられて他人に拾われることで厄除けの意味を込めたものなどがある。
しかし、特に決まりはないというのは、信長が子の信忠に「奇妙」(初の子で顔が奇妙に見えた?)、信雄「茶筅」(髪が茶筅のように結えるほど長い)、信孝「三七」(生まれが3月7日)等、適当に付けていることからも分かるところである。

その後、元服すると「輩行(はいこう)「実名」が付けられる。
信長を例に挙げると、元服後は「織田三郎信長」を名乗る。この中の「織田」が姓、「三郎」が輩行、そして「信長」が実名です。

「実名」は、一般的に主筋にあたる者に烏帽子親(仮親)となってもらい、元服時に烏帽子と共に実名の一字を授けられて付けられる名である。
このとき、烏帽子親の上の字を授けられる方が自分を尊重してくれているということである。
「信長」の場合は、父「信秀」の上の字「信」をもらっていることから尊重されているということになる。
ちなみに徳川家康(松平竹千代)の場合は、今川義元の「義元」の下の字「元」をもらい「松平元康」と名乗っていることから、しょせん服従させている部下の子の1人と、義元に軽く見られていたことが分かる。
(直臣ではないのに名の一字をもらっているので名誉ではありますが)

「輩行(または仮名(けみょう)ともいう)は、長男から太郎、次郎、三郎・・・・・・十郎、余一郎、余二郎、余三郎と付けられる通称で、 その子は小太郎、小次郎・・・・・・その子は、孫太郎、孫次郎・・・・・・その子は、彦太郎、彦次郎・・・・・・と続きます。
しかし、次男の信長が三郎だったりと、必ずしも順番通りに付けられるわけではなく、また、奇数や縁起のいい数字が好まれる風習もあったようである。

この通称には「輩行」以外にも「官職名」というものがある。
官職名は律令制で定められた官名のことで、正式には朝廷から授けられたり許可を取ってから名乗るものだが、戦国時代になると自ら貫禄をつけるために勝手に名乗ることも多かった
この官職名は大別すると2種類あり、「地方官職名」と「中央官職名」に分けられる。
「地方官職名」とは、剣聖として知られる「上泉伊勢守信綱」の「伊勢守」等を指し、これは「伊勢国(三重県の一部)」の「守(一等官)」を表している。
「地方官」には4つのランクがあり、一等官が先ほどの「守(かみ)」、二等官が「介(すけ)」、三等官が「掾(じょう)」、四等官が「目(さかん)」である。
「中央官職名」とは、中央つまり朝廷の役職であり、豊臣秀吉の「関白」が有名であろう。
つまり、正式には「豊臣関白秀吉」である。
他に有名なのは、「治部少」と呼ばれた石田三成の「治部少輔」や「加賀大納言」と呼ばれた前田利家などの官職名がある。ちなみに官職「大納言」の前に「加賀」が付くのは利家が居を構えているのが加賀国だったためである。

今まで説明した以外に忘れてはならない名が「号」である。
誰もが知る「武田信玄」「上杉謙信」の両雄。この「信玄」や「謙信」は、「実名」ではなく「号」である。
「号」とは、出家時に改めて付ける通称で、出家した者のみに付けられる特殊な名である。
この2人のように、戦国武将の中には晩年に出家する者が多いため、名を覚える際には注意が必要だろう。




●女子の名前

女子の名については、記された文献の少なさから一概には言えないが、「幼名」のように生まれたときに付けられた名しかなかったと思われる。
つまりは、信長の妹「お市」、その子「茶々」、信長の娘「五徳」のような名のことである。




●呼び方

最近の歴史を扱ったドラマや漫画などで、配下の羽柴秀吉が主君である織田信長を「信長様!」などと呼んでいる光景は珍しいことではありませんし、誰もが違和感なく見ていることと思います。
しかし、実際の戦国時代では、このような光景はありえなかったのです。

なぜかというと、前述のように「信長」というのは「実名」にあたります。
この「実名」は、またの名を「諱(いみな)ともいい、これは「呼ぶことを忌み嫌う名」という意味である。
なぜ呼ぶことを嫌うかというと、実名というものがその人の人格を表す名という意味があったため、それを敬う気持ちから呼ばぬことが礼儀とされたからである。
つまり、秀吉が信長を「信長様!」などと呼んだとすると、それは信長に対して大変失礼なことをしているということになるのです。

では、戦国時代の人は、他人を呼ぶときに何と呼んでいたのか。
そこで登場するのが、「輩行」「役職名」などの通称である。

男子の場合、この通称に敬称を付けて呼ぶのが正しい呼び方となる。
つまり、信長を例に挙げていうと、元服前は幼名・吉法師から「吉法師殿」や「吉法師様」。元服後は「三郎」という輩行があるので「三郎殿」や「三郎様」。役職「上総介」を名乗っていた頃なら「上総介殿」など。 本能寺の変前の役職「右大臣」を授けられていた頃なら「右府様」などである。
また、出家して「号」を持つ者は号に敬称を付けて呼ばれた
よって、武田信玄などは「信玄様」などという呼び方でいいことになる。

女子の場合は、嫁入り前は名前に敬称を付けて呼ぶ
つまり、お市なら「市姫様」、茶々は「茶々姫様」、五徳は「徳姫様」のようになる。
そして、どこかに嫁いだ時点から、呼び名は嫁ぎ先の城の名元いた城の名を冠したものとなる。
お市なら浅井長政に嫁いだ時点で岐阜城から来た「岐阜殿」、もしくは長政の居城・小谷城の「小谷殿」と呼ばれた。 また、豊臣秀頼の母として有名な茶々は、秀吉から淀城をもらった時点で、淀城の主ということから「淀殿」「淀君」と呼ばれるようになったのである。



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