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なぜ戦国の時代が始まったのか


室町幕府の権威が失墜し、戦国時代に突入した日本。 なぜ戦国の世になったのか。 それを知るためには、戦国時代の幕開けを告げる大戦「応仁の乱」の背景を順を追って知る必要がある。




1、細川勝元・山名宗全の幕府のトップ争いと、管領・畠山家の御家騒動

管領・畠山家では、政長と義就の兄弟(義理)が家督を巡り争っていた。
結局、管領職は政長が継いだのだが、1467年正月8日、突然 政長が管領職を罷免された。
これは、義就を支援する山名宗全が、政長を支援する細川勝元に対抗する手段として行った謀略だった。

これを不服とする政長は、正月17日、軍を挙げ京都洛中の上御霊社に布陣した。
対する義就も即座に出陣し、両者の間で激戦が繰り広げられた。
勝元・宗全の直接対決を恐れた将軍・足利義政は両者に自重するように命じ、勝元はこれを受け入れたが、宗全はこれを無視して援軍を出した。
これにより政長派は援軍を得た義就派に敗北。怒った勝元は対宗全の意思を固めた。



2、将軍の後継者争い

将軍・足利義政には、長年 跡継ぎとなる子が生まれなかった。
そこで、義政は、天台宗浄土寺門跡になっていた弟の義視を還俗させ、もし今後 子が生まれるようなことがあっても次期将軍にすると約束した。
しかし、その後、妻の日野富子との間に男児(義尚)が誕生。
富子は義尚を将軍にと願ったが、義政が次期将軍は義視という姿勢を崩さなかった。
そこで富子は、義視の後見役になっていた細川勝元に対抗するために、山名宗全を義尚の後見役としたため、再び勝元・宗全両者が激突することとなった。



3、応仁の乱、勃発

1467年5月26日、京都洛中全域で、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍の両軍合わせて24万余の軍勢が激突した。
とはいえ、関ヶ原の戦いのように全軍が一斉にぶつかったわけではなく、京の町を火の海に沈めながら、各所でゲリラ戦が繰り広げられたような感じだった。
よって、戦いの決着はつかず、管領・斯波家も後継者争いが勃発し義敏派が東軍・義廉派が西軍と分かれて争うなど、戦乱は全国規模に拡大。
さらに、翌1468年に、将軍・義政が正式に義視を推す東軍・勝元側に付いたと思ったら、同年中に擁立されていたはずの義視が西軍に付いたりと、状勢は混迷を極め、何のために戦うのかも分からずに戦乱は続いた。

結局、5年後の1473年3月に山名宗全が70歳の高齢で死去。同年5月に細川勝元も44歳で急逝。
戦乱に疲弊していた両軍は、勝元の後継者・細川政元と宗全の後継者・山名政豊が講和を結ぶことで、各自の領地へと帰ることとなった。




こうして応仁の乱は一応の終戦を迎えたが、将軍の威光は完全に失墜し、数々の遺恨を残したまま帰郷した部将達が各地で戦乱を起こした。
これにより日本は戦国の世に突入したのである。



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