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龍馬伝

岩崎弥太郎の視点で見た坂本龍馬を描いた大河ドラマ。
今までとは違う、新しい龍馬像・幕末観を描くことをテーマとしている。
ヒロインが4人出ることも異色。

脚本「福田靖」  演出「大友啓史」
出演・・・坂本龍馬役「福山雅治」、岩崎弥太郎役「香川照之」
     加尾役「広末涼子」、佐那役「貫地谷しほり」、お龍役「真木よう子」、お元役「蒼井優」





  坂本 龍馬  (1836〜1867年)

天保6年(1835年)11月15日(現在の西暦ことグレゴリオ暦では1836年1月3日)生まれ。
坂本直足(隠居後、八平)の子。住所は、土佐国土佐郡上街本町筋一丁目。
実名は直陰、のちに直柔。通称が、龍馬。

日根野弁治の道場へ入門して小栗流和兵法を学んだ後、 江戸の千葉定吉の桶町千葉道場(小千葉道場)に入門。更に、佐久間象山の私塾にも通う。 その後、土佐に一時帰国した時に画家・河田小龍から西洋事情を学び、 再び江戸の小千葉道場へ遊学して北辰一刀流免許皆伝を得る。

文久元年(1861年)、土佐で井口村刃傷事件が起こり、上士下士の対立が激化し、 武市瑞山をリーダーとした土佐勤王党が結成され、龍馬もこれに加わる。 しかし、意見の相違から翌年に脱藩。その直後に勤王党による吉田東洋暗殺事件が起こり、 龍馬が実行犯かと疑われる。その後、九州などを放浪した後、江戸の小千葉道場へ身を寄せ、 千葉重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会した後、勝海舟に面会して弟子になる。

文久3年(1863年)、勝の神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭を勤める。 この頃、勝や春嶽のおかげで土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許されるが、八月十八日の政変で京から尊攘派が追いやられると、 藩の弾圧により土佐勤王党も壊滅。弾圧から逃れるために龍馬は再脱藩する。

元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が創設。龍馬は、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫。 池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。 勝の庇護を失った龍馬は、勝の紹介で西郷隆盛を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される。

慶応元年(1865年)、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。 この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。 また、薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。

8月、薩摩藩名義で長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功するなど、薩長和解に尽力。
慶応2年(1866年)、1月22日、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。

同年1月23日、寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、おりょうと共に鹿児島を旅行する。(日本初の新婚旅行といわれる)

6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号で長州藩海軍を支援。
慶応3年(1867年)、4月、土佐藩との関係を修復して亀山社中は海援隊となる。
このころ、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。

6月、後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤が山内容堂を説いて、土佐藩の進言による大政奉還(12月)を実現させた。

11月15日、京都の旅寓・近江屋で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺される。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力。

墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。
また、明治24年、正4位を贈られている。





  岩崎 弥太郎  (1835〜1885年)

天保5年12月11日(グレゴリオ暦、1835年1月9日)生まれ。
土佐国の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の子。実名は敏(のちに寛)。雅号は東山。

幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。

21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。 父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業に手を染める機縁となった。

出獄後は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。
同塾には後藤象二郎らがいる。
東洋が参政となると藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。

この頃、27歳で弥太郎は喜勢を娶り、喜勢は明治7年に東京府に移転するまで美和達と土佐で暮らした。

土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐一郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。 しかし、必要な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺される。弥太郎は、無断帰国したともいわれる。 帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

慶応3年、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
坂本龍馬が脱藩の罪を許され、海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。
弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなど交流があった様子を日記に記している。

明治元年、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。
明治2年10月、大阪商会は九十九商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
廃藩置県後の明治6年に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。
三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。三菱マークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて作った。

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引である。弥太郎は最初から政商として暗躍した。

明治7年の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、明治10年の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。 政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。
しかし、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従道(西郷隆盛の弟)が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

明治11年、大久保利通が暗殺され、明治14年には大隈重信が失脚し、弥太郎は強力な後援者を失う。
明治15年7月、三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日、弥太郎は51歳で病死。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。 このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。





  龍馬伝・関係者

土佐
山内容堂
  藩主を隠居した後も藩の実権を握る主。幕末の四賢侯の一人。公武合体派。
吉田東洋
  公武合体派の参政。政治・流通・軍事などの改革を行なうが、土佐勤王党により暗殺される。
後藤象二郎
  東洋の甥。土佐の公武合体派から尊王攘夷派へ。明治に入ってからは政治家。
武市半平太(瑞山)
  尊皇攘夷派。土佐勤王党のリーダー。一時は土佐藩の主導を握るも、情勢の変化により投獄・処刑される。
平井収二郎
  土佐勤王党の一員。のちの土佐勤王党弾圧による処刑者第一号となる。
岡田以蔵
  幕末四大人斬りの一人。人斬り以蔵。土佐勤王党の一員。土佐勤王党弾圧により処刑。
近藤長次郎
  元は饅頭屋。のちに名字帯刀を許され神戸海軍操練所へ。亀山社中設立に貢献し、その一員となる。
沢村惣之丞
  土佐勤王党の一員だったが、のちに脱藩。勝海舟の門下生となり、海援隊の一員となる。
溝渕広之丞
  小千葉道場・佐久間象山に学び、のちに長崎でも砲術を学ぶなど龍馬に近い人物。明治に入ってからは隠棲。
長州
桂小五郎(木戸孝允)
  長州藩の尊皇攘夷派の中心人物。維新の三傑の一人。明治に入ってからは政治家。
薩摩
幕府
勝海舟
  幕臣。渡米後、神戸海軍操練所を立ち上げる。明治に入ってからは政治家。






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