功名が辻

「人々の心に響く本当の励まし」をテーマに制作された大河ドラマ。
原作は、司馬遼太郎「功名が辻」。
愚直な武将・山内一豊と賢妻・千代が支え合いながら、土佐二十万余石の大名まで登り詰める話です。

出演・・・山内一豊役「上川隆也」、千代役「仲間由紀恵」


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  山内 一豊  (1545〜1605年)

尾張国岩倉城主・織田信安の家臣・山内盛豊の次男。尾張国岩倉庄の生まれ。幼名は辰之助。

辰之助が幼い頃に、既に出仕していた兄・十郎が黒田城内で暴漢に斬られ死亡。父・盛豊も、永禄二年に織田信長が織田信勝(信行)と結んだ 織田信安の子・信賢の岩倉城を攻めた際に自害し、辰之助は流転放浪の身となる。
その後、尾張国刈安賀の浅井政高、近江国坂田郡宇賀野の長野業秀、美濃国牧村の牧野政倫、近江国勢多の山岡景隆を経て織田信長の馬廻り役となる。また、この頃には既に「一豊」と名乗っていた。

元亀元年、一豊、二十六歳の頃、妻を娶る。妻は一豊の母に礼儀作法などを学んでいた近江国坂田郡新庄村の若宮友興の娘で「まつ」といったが、嫁になるにあたり「千代」と名を改めた。

同年四月二十五日、織田信長が若狭を攻めた際に、剛の者・三段崎勘右衛門を討ち取り功を立てる。その後、秀吉の与力となり、数々の合戦で活躍。秀吉が長浜を与えられた際に、その領内の四百石を与えられ初めて領主となる。

天正四年、安土城下ですばらしい駿馬を見つけるが、金十枚と一豊の手の出る金額ではなかった。がっかりして家に帰った一豊が妻の千代に駿馬の話をした所、奥から金十枚を持ってきて、これは婚前に父から何か一大事があったときに使うように渡された金子ですが馬は武士の命なので使ってくださいと言った。 一豊はその金子で駿馬を手に入れ、その後の天正九年に信長主催の馬揃えで、その駿馬は信長の目に留まり、たいそう褒められる。

本能寺の変後は秀吉に仕え、秀吉が関白となった際に長浜三千石を受領。柴田勝豊の長浜城攻め、亀山城改築、賤ヶ嶽の戦いを経て三千五百石。小牧長久手の戦いの行賞で七千石。豊臣秀次の老臣となり、二万石の長浜城主となった。
しかし、天正十三年の大地震で愛娘・与弥を失い、一豊夫妻は美濃瑞龍寺の南化和尚の下、信仰の道に入り京都府花園の臨済宗妙心寺に塔頭を建てる。その二年後、娘の墓参りを終えた一豊夫妻はわら籠に入った赤子を見つけ養子とし、「捨」と名付ける。
天正十八年、小田原征伐の後、掛川五万石の城主となる。

秀吉が死ぬと、豊臣家中の文治派と武人派が対立が表面化し、ついに関ヶ原の戦いが勃発。一豊は東軍の徳川家康につく。 このとき千代が、石田三成ら西軍から届けられた勧誘の書状を開封せずに家康に差し出すように一豊に献策し、一豊は家康から信頼を得る。 また、掛川城で家康を手厚くもてなしたり、軍勢の宿泊地を提供したりと家康の心証を良くする努力をしている。
そして、その結果、関ヶ原後は土佐二十万石を与えられる。

しかし、土佐には長宗我部盛親が未だ浦戸城に籠っていた。よって慶長五年十月、家老桑名弥治兵衛らが浦戸城を攻囲。同年十二月、一豊は浦戸城に入る。 しかし、浦戸は土地が狭く発展の余地がなかったため、大高坂山に新しく城を築き、居城とした。

慶長十年正月、一豊の嗣子・忠義と家康の養女・阿姫との結婚でしっかりと土佐藩の礎を作る。
しかし、同年九月二十日、突然の病で世を去る。

享年、六十一歳。法号は、大通院殿心峯宗伝居士。墓は、真如寺と妙心寺塔頭大通院に分骨埋葬された。





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