一般武将編 |
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安居 三河守 (あお みかわのかみ) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。越前朝倉氏の元・被官?天正元年9月6日、明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉の連署状により、本領を安堵されている。 |
青木 又介 (あおき またすけ) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。森成利(御乱)の家臣。●天正8年8月13日、吉田神社の吉田兼見が信長に菓子七種を進上したときに、信長に献上する御乱の奏者役を努める。 ●天正9年2月25日、同じく吉田兼見より下緒三筋が進上され、奏者役を努める。 |
青地 茂綱 (あおぢ しげつな) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生年不詳。式部少輔、駿河守。近江六角氏の元・被官。蒲生定秀の次男、蒲生氏郷の叔父。青地長綱の婿養子となり青地氏を継いだ。 ●永禄11年、信長の傘下に入る。 ●永禄12年8月、伊勢北畠氏の居城大河内攻めに従軍。 ●元亀元年9月20日、浅井・朝倉連合軍が南近江・宇佐山城の森可成を攻めた時に、可成を援助して堅田で力戦するも、傷を数ヶ所受けて子の刻に没した。 |
青地 元珍 (あおぢ もとよし) |
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知名度 ☆☆☆☆★
永禄3年生まれ。千代寿丸、四郎左衛門、内匠助。茂綱の子息。●元亀元年10月6日、信長朱印状を発給され、父茂綱の遺跡を継ぐ。 ●元亀2年12月、近江永原城主佐久間信盛の与力となる。 本能寺の変後は、織田信孝 → 蒲生氏郷 → 前田利長と仕えた。 没年は、寛永10年9月。子孫は加賀藩士。 |
青地 与右衛門 (あおぢ よえもん) |
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知名度 ☆☆☆★★
生没年・実名不詳。相撲取り、近臣。●元亀元年3月3日、近江の常楽寺にて信長が行った相撲見物で鯰江又一郎と共に召抱えられ相撲奉行となる。 ●天正6年8月15日、安土山の相撲興行で、津田信澄・堀秀政・蒲生氏郷らと相撲奉行を務める。 ●天正7年4月17日、関東の多賀谷修理亮重経から進上された駿馬を試乗し、信長から褒められ正宗の名刀を与えられる。 ●同年9月16日、摂津の有岡城包囲に在陣する滝川一益・丹羽長秀に馬を拝領する使者となる。 ●天正9年2月28日、京都の馬揃えで「御厩別当」として信長本隊の馬牽き奉行を担当。 |
青山 新七 (あおやま しんしち) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。●永禄9年8月10日、信長から徳政を免除された。 ●天正3年5月、長篠城に向かった徳川家の酒井忠次と信長馬廻鉄砲隊の検使を金森長近・佐藤六左衛門と行う。 本能寺の変後は、織田信雄の鉄砲衆の代官となった。 なお、この記録は、新七父子の記録が混じっている可能性がある。 |
赤座 助六 (あかざ すけろく) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。赤座永兼の弟。美濃斎藤氏の旧臣。はじめ斎藤氏に仕え、のちに浪人となり和田惟政のもとに身をよせる。 ●永禄12年1月5日、三好三人衆らが将軍足利義昭を本圀寺で襲撃した際に、防戦。 のちに信長に仕え、織田信忠の配下となる。 ●天正5年4月3日、堺の津田宗及に織田与八・小寺新兵衛と共に茶会に招かれる。 |
赤林 掃部介 (あかばやし かもんのすけ) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。代々、尾張海東郡新屋に住み、信長・信雄に仕えたとされる。 父親の孫七郎某は尾張守護の斯波氏に仕え、天文21年8月16日の萓津合戦で織田彦五郎に与党して戦死した。 子孫は尾張藩士。 |
浅井 四郎左衛門尉 (あさい しろうざえもんのじょう) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生年・実名不詳。永禄9年12月、信長から知行を宛行われた記録が残る。 天正4年8月12日没。 子息で同名の四郎左衛門は本能寺の変後、織田信雄に仕えた。 |
荒川 治部少輔 (あらかわ じぶのしょう) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不明。元・将軍足利義栄の奉公衆。●永禄11年2月18日、権中納言山科言継が足利義栄を訪れた際に、申し次ぎをしている。 ●天正元年11月28日、信長から七筆、都合九十七貫六百文余の知行で家臣に加えられる。 父の代から将軍家に仕える家系だったらしい。 |
池田 輝政 (いけだ てるまさ) |
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知名度 ☆☆★★★
永禄7年12月29日生まれ。三左衛門尉、照政。池田恒興の次男。父と共に信長に仕える。 ●天正7年11月、荒木村重の有岡城攻めに従軍。 ●天正8年閏3月2日、花熊城の荒木勢と戦い、屈強の武士5・6人を討ち取る功を立てる。 本能寺の変後、父恒興に従い、美濃に移り、池尻城に入る。 ●天正12年、小牧長久手の戦いで父と兄が戦死したため、家督を継ぎ大垣城に入る。 ●天正13年、岐阜城へと移る。 その後、佐々成政討伐、九州征伐、関東小田原攻め、奥州遠征を経て、三河吉田十五万二千石を与えられ、羽柴吉田侍従と通称される。 この頃から、羽柴秀次に付けられる。 秀吉死後、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、岐阜攻略の恩賞として播磨姫路五十二万石余に加増される。 実名は、慶長14年頃に照政から輝政に改めたらしい。 没年は、慶長18年正月25日。享年、50歳。 |
生駒 家長 (いこま いえなが) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生年不詳。八右衛門尉。尾張の豪族で商家。妹は信長の側室(名は吉乃と云われる)●永禄3年9月、信長より馬1匹の関税を免除される。 ●元亀元年4月、越前朝倉氏の金ヶ崎・疋田攻めに従軍。 ●同年6月、姉川の合戦で佐々成政に属し、功を立てる。 本能寺の変後は信雄に仕えて千三百貫文の知行、信雄改易後は豊臣秀次→秀吉と仕えて千九百七十石の知行を得た。 また、関が原の戦い時は、徳川家康に上杉討伐から従軍し、本戦でも東軍に属した。 戦後は尾張に入部した松平忠吉の家臣となり、子孫は幕末まで尾張藩士として存続した。 没年は、慶長12年正月7日。 |
伊藤 神六 (いとう しんろく) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。馬廻衆。元亀元年11月9日、信長が在陣する近江志賀に権大納言山科言継が訪れた際に、神六の小屋で酒を振舞ったとされる。 本能寺の変後、信雄の家臣団に伊藤新六の名があるのも同一人物と見られる。 |
伊藤 彦兵衛 (いとう ひこびょうえ) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。馬廻衆。元亀元年11月9日、信長が在陣する近江志賀に権大納言山科言継が訪れ、伊藤神六に酒を振舞われた時に、彦兵衛の調子が悪いことを伝え、診察してもらい薬をもらう。 同月28日、言継から更に薬を七種もらう。 翌月の12月4日、京都の言継を訪ね、物を贈る。 翌年の元亀2年12月、岐阜を訪れた言継とお互いに贈答する。 |
伊藤 孫太夫 (いとう まごだゆう) |
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知名度 ☆☆☆☆★
生没年・実名不詳。水軍の将。滝川一益配下の大船の上乗衆。 ●天正6年9月晦日、信長が堺に新造の甲鉄船の視察に訪れた際に、黄金6枚と衣服を拝領する。 本能寺の変後は、信雄の水軍となり、配下の舟方衆の分も含めて千五百貫文の知行を得た。 |