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国持ち武将編 |
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明智 光秀 (あけち みつひで) |
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知名度 ★★★★★
十兵衛尉、日向守。近江坂本・丹波亀山城主。丹波、近江滋賀郡を統治。経歴に不明な点が多いが、細川 藤孝 → 足利 義昭 → 織田 信長 と仕えたようだ。 ●永禄11年、信長の上洛に従軍。京都奉行を務める。 ●元亀2年、近江滋賀郡を与えられ、坂本城主となる。 ●天正3年6月、丹波攻略に着手。 ●天正8年8月、丹波を攻略の功により丹波を与えられ、丹波亀山城主となる。 ●天正10年、武田氏征伐に従軍。 ●天正10年6月2日、本能寺において信長を急襲、自刃させる。 ●天正10年6月13日、山崎の合戦で秀吉に敗退。 その後、小栗栖で落ち武者狩りにあい、死亡と伝わる。 |
荒木 村重 (あらき むらしげ) |
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知名度 ☆☆★★★
天文4年生まれ。弥介、信濃守、摂津守。摂津有岡(伊丹)城主。摂津を統治。摂津の豪族・池田 勝正 → 織田 信長 と仕える。 ●天正元年、摂津を与えられる。 ●天正3年、伊丹城の伊丹 親興を滅ぼし、城を有岡と改名し居城とする。 ●天正6年11月、毛利氏と結んで、有岡城に篭城して信長に反旗をひるがえす。 ●天正7年9月、落城。 ●天正8年10月、毛利氏を頼って敗走。 その後、剃髪し、道薫と号す。 ●天正14年5月4日、堺で没す。享年、52歳。 |
河尻 秀隆 (かわじり ひでたか) |
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知名度 ☆☆★★★
大永7年生まれ。与兵衛尉。甲斐府中城主。甲斐、信濃諏訪郡を統治。尾張時代からの信長の側近の1人。 ●天文11年、織田 信秀による三河小豆坂の戦いに従軍。 ●永禄7年、美濃攻略戦に従軍。 ●永禄12年、伊勢北畠氏征伐に従軍。 ●天正2年、長島一向一揆征伐に従軍。 ●天正3年、武田方の岩村城を攻略。 ●天正7年、荒木 村重の有岡城を攻略。 ●天正10年、甲州征伐に従軍。甲府に入城。甲斐・信濃諏訪郡を与えられる。 ●天正10年6月18日、本能寺の変の煽りを受け、武田氏旧臣を中心とする一揆に遭い戦死。 享年、56歳。 |
佐久間 信盛 (さくま のぶもり) |
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知名度 ☆☆★★★
生年不詳。半羽介、右衛門尉。尾張山崎、近江永原城主。領国は尾張、三河、近江等、数ヶ国に分散。 信長の幼少期からの家臣。 ●永禄3年、桶狭間の戦いで善照寺砦を守護し、功あり。 ●永禄10年5月、信長の息女五徳が家康の嫡男信康に嫁ぐ際に、三河岡崎まで供奉。 ●永禄11年9月、信長の上洛に従軍。 ●元亀3年12月、三方ヶ原の戦いに家康の援軍として参戦。 ●天正2年7月、伊勢長島一向一揆攻めに従軍。 ●天正3年8月、越前一向一揆攻めに従軍。 ●天正4年5月、天王寺砦に入り、本願寺攻めの責任者となる。 ●天正8年8月、本願寺攻めが進まないことを理由に子息共々、追放処分となる。 晩年は剃髪して夢斎定盛と称す。 没年は、天正9年。大和の十津川で湯治中に病没。 |
佐々 成政 (さっさ なりまさ) |
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知名度 ☆☆★★★
天文5年生まれ。内蔵助、陸奥守。尾張比良、越中富山城主。越中を統治。精鋭部隊・黒母衣衆の1人。 ●永禄4年、美濃攻めに従軍。 ●永禄12年、伊勢北畠氏攻めに従軍。 ●元亀元年〜、浅井・朝倉両氏との抗争に従軍。 ●天正3年9月、越前一向一揆の功で、柴田勝家の下で府中三人衆となる。 ●天正9年2月、越中を与えられ富山城主となる。 本能寺の変後は織田信雄・徳川家康と結んで秀吉に対抗するが、後に降伏。 秀吉の九州征伐に従軍して肥後を与えられるが、失政による責任を問われ切腹。 没年は、天正16年5月14日。享年、53歳。 |
柴田 勝家 (しばた かついえ) |
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知名度 ★★★★★
生年不詳。権六、修理亮。越前北ノ庄城主。越前、加賀を統治。はじめは信長の弟、勘十郎信勝の家老となる。 ●弘治2年8月、林秀貞と共に信勝の擁立を謀り、信長に背くも降伏。 ●永禄11年9月、上洛に従軍。先陣として京都に進駐し勝龍寺城を落とす。 ●元亀2年5月、伊勢長島攻めに参加するも惨敗。さらに、退却時に負傷。 ●天正元年、浅井朝倉攻めに従軍。 ●天正3年、越前一向一揆討伐で功あり。 ●同年9月、北ノ庄城に入り、越前八郡を与えられる。 ●天正5年8月、加賀に出陣し、上杉謙信を牽制。 ●天正8年、加賀を平定。 ●天正9年2月24日、上京して信長に加賀の平定を復命。織田家伝来の姥口の釜をもらう。 ●同年同月28日、京都の馬揃えに越前衆を率いて参加。 本能寺の変後は、信長の三男信孝を擁立して秀吉と対立するが、賤ヶ嶽の戦いで秀吉に敗れ、 さらに北ノ庄城を包囲されて、そのまま落城。 天正11年4月24日、城内で妻のお市の方とともに自害して果てた。 |
滝川 一益 (たきがわ いちます) |
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知名度 ☆☆★★★
大永5年生まれ。久助、左近将監。伊勢長島、上野厩橋城主。北伊勢、上野、信濃小県・佐久を統治。 ●永禄12年10月、伊勢北畠氏攻めに従軍。 ●天正2年9月、長島一向一揆征伐に従軍。長島に入城。北伊勢を与えられる。 ●天正6年9月、本願寺攻めに従軍。 ●天正10年、甲州征伐に従軍。厩橋に入城。上野・信濃二郡を与えられる。 ●同年、本能寺の変を聞いた小田原北条氏の攻撃を受け大敗。伊勢長島に撤退する。 その後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉と対立するが、天正11年に降伏。 剃髪して入庵と号し、越前大野に蟄居。 没年は、天正14年9月9日。享年、62歳。 |
筒井 順慶 (つつい じゅんけい) |
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知名度 ☆☆★★★
天文18年3月3日生まれ。藤勝丸、藤政。陽舜房順慶と称す。大和郡山城主。大和を統治。興福寺の官符衆徒・順昭の嫡男として筒井城で生まれる。2歳のとき父の死により家督を継ぐ。 ●永禄2年、松永久秀に領国を追われ、堺などに逃亡。 ●永禄9年、興福寺にて得度。 ●元亀2年、久秀が信長に叛旗を翻したのを機に、信長に属す。 ●天正4年5月、大和守護となる。 ●天正5年3月、筒井城を回復。 ●同年10月、信忠の久秀征伐に従軍。 ●天正8年、郡山に入城。大和を与えられる。 本能寺の変後、明智光秀の与力であった順慶の元に、光秀より再三援軍要請があるが、 山崎の合戦時、結局どちらにもつかず郡山城に留まった。 このことから、後に「日和見順慶」とあだ名される。 その後、秀吉に属し、小牧長久手の戦いには参戦しようとするも発病。 天正12年8月11日に病死。享年、36歳。 |