武田 晴信 (たけだ はるのぶ)

太郎、勝千代、入道名は信玄
大永元年(1521)11月3日、父・武田信虎と遠江土方の城主・福島正成との合戦中、母・大井夫人の避難先であった積翠寺の山城で生まれる。

天文5年(1536)11月、初陣として信虎の佐久海ノ口城攻めに従軍。信虎はこの城を攻めきれず、12月26日に大雪のため来春に出直すことにした。 ここで晴信は自ら殿(しんがり)を買って出る。翌27日、信虎の撤退を見て、海ノ口城では配下を里に返していた。晴信はこれを予期し、自らの手勢のみで海ノ口城へ取って返し、油断している所を一気に占領した。この手柄で家中の者は晴信の器量を見たのだった。

天文10年(1541)、悪政非道が目に付いていた父・信虎を、武田家重臣・板垣信方や飯尾兵部らと謀り、甲斐を追放して信虎の娘を娶り同盟を組んでいた駿河の今川義元の元へ送った。こうして晴信は武田家の家督を継ぐこととなった。

甲斐と信濃の国境沿いにある諏訪は湖を抱いた盆地で武田氏も先祖代々信仰してきた軍神を奉る諏訪社のある土地である。 ここを治める諏訪頼重は晴信の妹・禰々(ねね)を娶っており武田とは同盟関係にあったが、元々関係が悪化してきていた所へ晴信らによる信虎追放という事件を経て、かなり疎遠となっていた。
天文11年(1542)6月24日、晴信は諏訪でも反頼重派にあたる高遠頼継と謀り、突如諏訪領内に侵攻。本拠の上原城を落とし、桑原城で立て篭もる頼重を包囲した。ここで晴信は頼重と和議を結び、頼重は自刃させて、諏訪の惣領には頼重と禰々の子・寅王を立てた。 そして、これを不服とする高遠頼継を打ち破り、諏訪を制圧した。





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